初代教会長のご遺徳


初代教会長 野口高吉

初代教会超初代教会長、野口高吉(号は靖允、諡して靖嶽易聖霊神)は明治二十九年二月十四日、当時の千葉県市原郡内田村に生を受けた。尋常高等小学校在校中、現在でいう若年性関節リウマチを発症し、年を追うごとに病は重症化して尋常高等小学校卒業の頃には終日臥床する状態となった。このため進学を断念し、その後独学で漢学を、次いで国学を学んでいたが、感ずるところあって周易哲学を専心研究して、世の人々の悩みを打破し人心の教導に任ずることとなった。

大正九年三月、御嶽教に入信。柄澤照覚先生に師事し国史、国典の再考究、並びに御嶽教の教理教典の講義をいただいた。また、同時に御嶽教所定の神事祭式作法の講習も受けた。

昭和三年十二月、御嶽教管長より准教正を拝命。

この間、二十一日間不眠の行を敢行。満行の日、夢現つに龍神が出現し、龍神の背中に乗りて諸国を天空から視察するというご神助を得る。また、他日、夢に白衣観世音菩薩が現れ、一寸にも満たない小さな白衣観世音菩薩像の存在を予言。家捜しの結果、家の中のある所より白衣観世音菩薩像が発見された。この白衣観世音菩薩像をお仏壇に安置。これら二つの奇瑞の後、易による占いはほぼ100%の確率で事象を解析解明し、多くの人々をお救いすることになった。ちなみに、この白衣観世音菩薩像は教会教務所内のお仏壇にて、現在もそのお姿を拝することができる。

昭和十五年四月、御嶽教白衣昇龍講を設立。

昭和十七年五月、御嶽教神誠一心教会を設立。

昭和二十七年六月五日、宗教法人格を取得し御嶽教鶴舞神誠一心大教会となる。

すでに毎日の易占の依頼者はひきも切らず、早朝より深夜までお伺いの人々は途切れることがなかった。当時は皇室関係者や時の政府関係者も訪れたという。初代教会長は一人一人のお伺いの方に温顔をもって接し、人々の悩みを解決するとともに、生活の指針を教導された。ちなみに、睡眠時間は平均三時間程度であったという。いつのころからか、お伺いの皆様の誰言うともなく、その人徳を讃えて「ねじゃか」(寝釈迦様)と呼ばれるようになる。(本人はお釈迦様に申し訳ない、勿体ないと常々言っていたようであるが)。

また、教会の大祭の参拝者は毎回200名とも300名ともいわれ、事実、この時代に東京方面からの参拝者は貸し切りバスを仕立てて団体で参拝し、教会拝殿に入りきれない参拝者は外で熱心に参拝されていた、という記載も残っている。

持病の関節リュウマチに加えて糖尿病も発症し、毎日のハードなご奉仕もたたったためか、昭和三十六年七月二十六日、薬石効なく急性心筋梗塞のためその一生を終わり、木曽御嶽山にお帰りになられた。まこと、人々の救済に一生を捧げた、生きながらにして神とも呼べる人であった。終生弟子や教え子をとることはなく、その易占は昇龍館式易断とも称して、二代教会長(現教父)に受け継がれている

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